Waypointsシーズン2で紹介した漫画の一つに、ましうがイラストを担当した『パンがなくても』があります。この漫画は、聖書(ルカの福音書10:38-42)にあるストーリーをもとにしていて、マルタという名前の女性が主人公として登場します。

このストーリーの中で、マルタはとてもストレスを感じています!おもてなしを完璧にしよう、イエス様にふさわしいことをしたい、とあれもこれもしなければ!と感じています。一方、マルタの妹であるマリアは、イエスの足もとに座って、イエスの教えを聞いています。マルタはマリアが手伝わないことに苛立ち、結局のところキレてしまいます。

でも、聖書のストーリーではよくあることですが、この話の中で…

目に見える以上のことが起こっています。

多くの現代の読者が簡単に見逃してしまう一つの大事なこと、それはマリアが実際のところ、当時の社会的な決まり事、文化的な決まり事を破っているということです。1世紀のユダヤ人社会では、普通は女性がこんな風に男性と時間を過ごすことはありませんでした。イエスと弟子達が座っていた外側にある部屋は、男性のためのものでした。女性は、この状況では、台所にいるのが普通でした。

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でも、もう一つ、マリアがこの場面で破っている当時の決まり事があります。

それは、イエスの足もとに座ることで、弟子の姿勢をとることです。当時の社会では、女性は弟子になることも、ラビ(教師)になることも出来ませんでした。つまり、教師の足もとに座るということは、弟子であることを意味していて、自分自身も将来、教師になるかもしれないという意思を示すものだったのです。

ですから、当時の文化を考えれば、マリアは規則を破っているので、マルタが怒るのは当然でした。それでマルタは、イエスが自分の味方になってくれると期待していました。

しかし、味方をする代わりにイエスはこう言いました:「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

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イエスは、マリアが男性と一緒に、仲間の弟子として、そこで座っていることを肯定しました。これは、当時はスキャンダルになるような、とんでもないことだったでしょう。

でも、これこそが、イエス様らしいことでした。

イエスについてのストーリー全体を通して聖書の中で見られることは、人間が作った境界線をイエスが何度も破ったということです。

Waypointsの漫画の中でも、このことを度々、取り上げてきました。イエスは敵に対して憐みを示し(『センチュリオン』)、取税人を受け入れ(『どうしようもない』)、異文化出身の人にも優しく真実を語り(『井戸端で』)、病気で孤独な女性のために時間を使い(『ある女の絶望』)、子供であっても重要な役割を果たせることを示しました(『皆のための場所』)。

イエス様は、女性を含め、この世では受け入れられなかった人々を受け入れ、誉れと尊厳を与えました。

マルタやマリア、その場所にいた他の人たちが、イエスの上述の言葉にどう反応したか、私たちには分かりません。聖書は私たちに教えてくれていないのです。私たちの漫画では、男性達が自分からすすんで台所で手伝い、みんなが一緒に食事を幸せに楽しむ、という風にこのストーリーを終わらせました。

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実際にはそういうことは起きなかったでしょう。

ですが、イエス様はこういうことが起こる可能性がある、そして起こるべき世界を、未来に指し示したのです。男性と女性が平等であり、違う人種も社会的立場が違う人も平等である世界を。

他の聖書箇所で、初期の教会指導者が、あるクリスチャン達に宛てた手紙にはこうあります:

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ人への手紙3:28)

言い換えれば、あなたが誰であっても、イエス様の足元にあなたの場所が用意されている、ということです。マリアのように、あなたもイエス様の弟子になることができ、神との関係を持って、あなたの人生にある目的、進むべき方向、必要な知恵を得ることができます。

あなたも座ってみませんか?

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