「嵐の前の静けさ」という表現はこれまでに聞いたことがあると思います。

文字通りの意味は天候に関する話から来ています。大きな嵐の前に天候がとても穏やかで静かな短い時間があるのは、よくあることだと言われています。

一方でこの表現を、忙しい時期や騒々しい活動の時間、興奮するような出来事の直前にある、静かで穏やかな時間のことなどに当てはめて使うこともあります。幼稚園の先生はエネルギーに満ちた子供達が登園する前の静かな時間を「嵐の前の静けさ」と呼ぶかもしれません。また、流行っているレストランのシェフやウェイトレスが、ランチタイム前の平安な一時を「嵐の前の静けさ」と呼ぶかもしれません。

ですが、「嵐の中での静けさ」という表現をこれまでに聞いたことはあるでしょうか?

私達の最近の漫画「嵐の中で」は、聖書(マルコの福音書4:35-41)に基づくストーリーです。そこにはイエスとその弟子達が、遭遇した嵐に対して全く異なる二つの反応を示したことが描かれています。

弟子達はとても怖がりました。気が動転していました!

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これに対して、イエスは昼寝をしていました。眠っていたのです!

イエスは心配していませんでした。怖がってもいませんでした。イエスは、その船が嵐にあっても大丈夫だと知っていたのです。ですから、心の内には嵐の最中でも眠れるだけの十分な平安がありました。イエスには「嵐の中での静けさ」があったのです。

弟子達がイエスを目覚めさせた時、イエスは起き上がって嵐を静めました。もちろん弟子達は仰天しました。そのように、もしイエスが私達の船に一緒に乗っておられるなら、つまり私達の人生に一緒にイエスがいるならば、私達が祈り求める時に、イエスは私達のためにも同じ様に驚くようなことができるのです。

ですが、これは実際のところ、このストーリーの主要なポイントではありません。イエスが弟子達に何と言ったか気付きましたか?

「なぜ怖がるのですか?あなたがたの信仰はどこにあるのですか?」

イエスは昼寝を邪魔されたので、気難しかっただけなのでしょうか?それとも、彼らに何かを教えようとしていたのでしょうか?それにしても、なぜ、イエスはこう言ったのでしょうか?

弟子達がイエスを起こした時、弟子達は何と言ったでしょうか?

「俺たちが溺れそうなのに、どうなってもいいんですか?」

弟子達がその状況のもとで恐れるのは自然なことでした。しかし、イエスの愛を疑問視したという点で、間違っていました。弟子達はイエスが自分達のことを心配してくれるかどうかを疑ったのです。

イエスの教えを聞きながら、イエスが行う奇跡を見ながら、イエスといつも時間を過ごしてきた後なのに、弟子達はそれでも恐れたのです。彼らは依然として信仰を欠いていたのです。

イエスが弟子達に教えていることは、彼らがイエスを信頼すべきだった、ということです。弟子達は心配する必要がなかったのです。たとえイエスが嵐を静めなかったとしても、彼らは大丈夫だったはずです。

私達は誰もが人生の中で嵐を経験します。その嵐は様々な形をとるでしょう。病気、ストレス、金銭的な問題、人間関係の問題、愛する人の死、将来に対する恐れや不確かさなど。。。

そして聖書は、私達の誰もがこうした嵐を免れられると約束してはいません。こうした嵐を一人で経験する必要はない、と聖書は約束しているのです。

ある作家(ジョン・オートバーグ)がこれについて、下記のように言っています…

「平安とは、湖に嵐が起きていないから与えられるものではない。
平安は船にイエスが一緒にいるから与えられるのだ。」

イエス様はあなたの人生に違いをもたらすことができるお方です。もし、あなたがそう願うならば。イエス様をあなたの船(人生)に迎え入れてください。そうすればあなたはイエス様の平安、つまり「嵐の中での静けさ」を楽しむことができるでしょう。

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