クリスマスの時期は、多くの人が平和について思いめぐらす時になります。争いや衝突が当たり前になってしまった今の世界に生きる私たちも、これが本来のあるべき姿ではないと、皆が感じています。そしてクリスマスは特別に、多くの人が平和を強く願う気持ちを持つ時になります。

聖書のルカの2章は、イエス・キリストの誕生を告げる主のみ使いが、羊飼いたちのところに現れた話です。み使いは、平和の約束を告げ知らせる賛美の調べで締めくくりました。14節で、こう言いました:

「いと高き所に、 栄光が、神にあるように。地の上に、
平和が、御心にかなう人々にあるように。」


栄光が、神にあるように。平和が人々にあるように。このような ことを告げたみ使いは、果たして正しかったのでしょうか?2000年がたった今、私たちの世界ではまだ平和であるとは言えない状態が続いています。み使いの約束は、どうなってしまったのでしょう?

実は、私たちはあらゆる平和を手に入れる前に、神様との平和を しっかり手にする必要があります。だからそのために、イエス様が地上に来られたのです。十字架の死と復活によって、イエス様は神様と私たちとの平和な状態を保つことができるよう、その道を備えてくださったのです。

聖書のローマ人への手紙5章1節に、このように書いてあります:
 

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの 主イエス・キリスト によって、神との平和を
持っています。」

 

イエス様は、神様との平和を私たちに与えるために人間の姿となって地上に来てくださいました。

昔のニューギニアには、異なる種族の間で、平和な状態を作り上げる「ならわし」がありました。それぞれの部族の頭達は、生まれたての赤ちゃんである息子を交換したのです。そして、その養子とされた赤ちゃんを、その部族の中で大切に大切に育てました。もしこの子が死んでしまったら、平和がなくなってしまうということがわかっていたからです。

Don と Carol Richardsonというカナダ人の宣教師たちがいました。 Richardsonたちは、この「平和の君」の慣習を用いて、 ニューギニアの人たちに、イエス様のことを説明しました。イエス様が、この先ずっと、「平和の君」となったこと、そのイエス様が永遠に私たちと共におられ、永遠に続く平和をもたらしてくださっていることを伝えました。

そうです。イエス・キリストは「平和の君」として、この地上に来てくださいました。

み使いが 言ったこと「いと高き ところに栄光が あるように。
地の上に平和が、み心にかなう人びとにあるように。」
は、
やはり、正しかったですね。


私たちが、イエス様との関係によって、神様の栄光をたたえるならば、私たちの心に、そしてこれからの人生に、神様との平和を経験することができるのです。それによって、他の人たちとの平和な関係も、作ることができるのです。

神様の平和の君であるイエス•キリストが、あなたの人生と関係に平和をもたらしますように。

皆さん、メリークリスマス!