Waypointsの最近の三つのストーリーは、イエスが教える時に語った話である例え話にヒントを得ています。このうち、2つのストーリーは「よきサマリア人」として知られている同じ例え話に基づいています。

一つは例え話を親しみやすくするために現代の設定で描いています。もう一つの方は、元々の文脈を描き、イエスの話を聞いた当時の人たちがどんな反応をしたか、を示そうとしています。

イエスの例え話には深い意味があります。しかし、現代の読者にとっての課題は、私達があまりにも元々の文脈からかけ離れたところにいるため、例え話が持っていたニュアンスや影響力を見逃してしまうということです。それぞれの話が読者の皆さんに生き生きと語りかけるために、異なる設定で描いた二つのストーリーを読むことが役立てばいいなと思っています。

現代の聖書の読者が見ないかもしれない一つのことは、よきサマリア人のたとえ話がイエスの時代の元々の聴衆には、非常に衝撃的だったということです。イエスはユダヤ人の聴衆に語っていますが、従うべき良い例として、サマリア人という驚くべき英雄を使いました。 

samaritan shock

現代の私達にとって何がサマリア人に相当するかは、想像し難いです。現代の日本を舞台設定とした「誰が私の隣人?」では、よいサマリア人をホームレスの女性にしました。控えめに言っても予想外の英雄です。彼女は通りすがりの人が無視するような人物です。社会が期待しておらず、また見下したり拒絶したりする人です。

homeless samaritan

しかし、イエスの例え話における英雄は、さらに予想外でした。なぜなら、サマリア人は、部外者よりさらに悪く見なされていました。サマリア人はユダヤ人のとされていました。以前のブログで説明したように、サマリア人とユダヤ人との間における敵意は深刻で、始まりは何世紀にも遡るものでした。

サマリア人を英雄にすることによって、イエスは私達が持っている偏見や文化、心地良いと感じる範囲を遥かに超える「隣人」の本質的な例を示しました。

昔にそうであったように、現代に生きる人たちにとっても、違いは私達を分断させます。私達は自分と似たような人たちと一緒にいて、自分達の外側にあるニーズを無視して、自分達の内側の仲間のニーズに気を配るのが好きです。

ですが、もし私達がみな、見知らぬ人、部外者、さらに自分達の敵さえも隣人だと考えるならどうなるでしょうか?

私達の中にもっと多くのよいサマリア人がいるなら、世界はより良い場所なのではないでしょうか?

go and do likewise